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アタリショックとは、1982年のアメリカ年末商戦を発端とする家庭用ゲーム機 (パソコンゲーム市場を含まない) の売上不振「Video game crash of 1983」のことである。ただし、欧米でこのアタリショックという呼び方をされることはまずない。
ここから転じて、ゲームソフトの供給過剰や粗製濫造により、ユーザーがゲームに対する興味を急速に失い、市場需要および市場規模が急激に縮退する現象を指すこともあるが、いずれにせよ日本語特有の表現である。(Wikiより引用)
歴史上のアタリショックはWIKIを参照していただきたい。ゲーム業界のオイルショック的なものであったかどうかはさておき(←全然違う)、実はわたくしもアタリショックを経験した。
あれは高校二年生の修学旅行、我らゲーム大好き少年たちは自由行動時間に秋葉原をめざした。当時から海外のゲームにきわめて興味があったわたくしは、限られた小遣いでみんながスーパーファミコンや、メガドライブのソフトを買うのを尻目に、あるゲームマシンを狙っていた。
そのゲームマシンとは「アタリ・リンクス」である。当時からテクノロジーに強い執着を持つあたしは、携帯型ゲームマシンであるにもかかわらず、当時最高性能だったスーパーファミコン以上の性能を持つこのマシンに強い憧れを持っていた。地元北見でも本体やソフトが店頭に並んでいたものの、高価で手が出せず悔しい思いをしていたのである。
修学旅行といえばお小遣いだ。我が家はきわめて苦しい家計状況であったが、親もこのときとばかりに奮発してくれて、3万円も持たせてくれたのである。3万円といえば今のあたしにとっても大金、高校生だったあたしは学生で3万円という大金を手にするのはこれが最後のチャンスだと感じた。
リンクスの価格は29800円、3万円をここに投入するなら、すべて終わりとなる。ソフトは買えない。そしてこの先数日続く修学旅行も、ジリ貧ですごさねばならない。しかしあたしはそんなことを迷わなかった。それでいいと思った。
で、海外ゲームのメッカであった現在のカオス館(当時なんといったかは失念)に行き、リンクスを探した!あった!し、しかもなんだ、ソフトが2本ついて25800円!?安売りのメッカでもある秋葉原ありがとう。
世界のゲームメーカーの重鎮、アタリ社の最高性能携帯型ゲーム機、リンクスがソフト付で安い。これは迷う迷わないの問題ではない。
4200円という余力を残し、さらにお目当ての品も手に入れ、その後の修学旅行も楽しく過ごし大成功。リンクスを手に入れたその晩は、旅館の部屋でみんなの期待を集める中電源投入。ブルーライトニング(だったかな)という戦闘機のシューティングゲームは、当時あたしらが大好きだったセガのアフターバーナーを彷彿とさせる内容で大満足。
しかし期待が高すぎたせいもあり、はしゃいでいるふりをしながら実は「まあこんなもんなのかな」といったゲームの完成度への期待はずれを冷静に感じてはいた。けれども当時のゲームとしては群を抜いており、かつ海外製、舶来品という部分があたしの満足感を満たした。
さて、北見へ帰ってきて最初の小遣い日にあたしはおもちゃ屋に走った。確かに記憶にあるリンクス取り扱い店へ自転車を走らせた。カーブなんてほとんどドリフトしながら走った。それほどあたしは高揚していたのだ。
店へついて店員に駆け寄る。そこであたしは想像もしていなかった答えを聞くことになる。
「リンクスはもうお取り扱いしておりません」
一瞬間、あたしは店員さんが日本語でそういったのかどうか理解に苦しんだ。だが確かに日本語でそういった。後から知ったことだったが、アタリリンクスの日本代理店、ムーミン社が撤退していたのだ。だがネットもなく、情報誌からしか情報を得られない時代、あたしはそんなこと知っちゃいない。知っちゃいないが、店員さんの「もう」という部分で、今後一生涯リンクス関連の商品は取り扱われないのだと悟った。北見では他の店での取り扱いはなかった。つまり、この店の店員さんがそういい切ったということは、あたしにとってのリンクスは終わったということである。
これがリンクスを手に入れてわずか2週間以内で起こった出来事。アタリショックどころの話ではない、まさにアタシショック。俺ショック。
こんなあたしショックを経験しながらも、あとで社会人になってからアタリ・ジャガーという名のゲームマシンでまた同じ目にあったあたし。日本総代理店のムーミン社は撤退が得意だ。あの頃、テレビアニメのムーミンを見ても憎く感じるほどムーミン社を恨んだ。
同じ境遇を経験した人、いるでしょ(笑